いつの頃だったか、その瞳から零れる雫を求めてしまっている。その涙に心臓を締め付けられながら、まだ自分の言動が君に影響があることを知って、安堵する。

ねぇ、愛しているよ。きっと確実に。

こんな愛し方しかできないけど、赦してくれるかい?





腕に抱えた薔薇の花束の香りは湿気た空気に溶けて、鼻腔に伝った。

その妙に重たげな気体から顔を背けるように天を見上げると、厚い雲が覆った夜空を街の、人工的な光が照らしている。星や月の光は地上には届かない。雲が遮っているから。既にこの地球そのものが光っているから。

「地球は、いつの間にか恒星になったらしいよ」

俺がその、照らされた暗い雲を見ながら言うと、イギリスは、そうか、と興味が無さそうに言った。ゆっくりと視線を落とす。イギリスはランプの灯りで薄暗闇から薔薇を浮かべて、目で注視したり、指で触れたりしていた。白い指も同じくランプの灯りに照らされている。その横顔はかつて見たようなやわらかな、慈しむような表情ではなく、どこか緊張したような、硬い表情だった。

「そろそろ土星も金星も、太陽さえ、この星を中心に回りだすかもしれないね」
「馬鹿なこと言ってんなよ。そんなこと、あるわけないだろ」

こっちを見もせず、イギリスは言う。また一輪、花鋏を鳴らして、それは彼の物になった。俺は渡されたそれを受け取って、さっきから持っていた束に加える。心なしか香りが増したような気がして、大きく、彼に聞こえるように、溜息を吐いた。吸った息も吐いた息も薔薇の香りを纏っていて、それらは肺で気体と分離し、肺胞内部に沈殿されていく。

空は相変わらず暗いのに、明るい。かつて彼に教えてもらった星座なんて、実在を疑ってしまうように欠片も見当たらない。

そもそもこんな、曇っていて月明かりさえ無い夜になんで薔薇なんか摘む必要があるのかがわからない。もう三度くらい尋ねてみたが、イギリスは、ベッドサイドの花瓶に飾りたくなった、としか言わない。それなら別に明日でも困らないだろう。別に今夜、こんな暗い夜にする必要だなんて無いのだ。

「ねぇ、もうこのくらいでいいんじゃ無いの?」
「あと少しだけ」
「俺はもう疲れたんだけど」
「知るかよ」

イギリスは言いながらもう一輪こちらに差し出した。俺はしかたなくそれを受け取る。また薔薇の香りが増したような気がした。鼻腔、肺胞に沈殿された香りで、息ができないような錯覚を覚える。苦しい。はぁ、ともう一度大きく息を吐いて、気管に呼気を通す。

また花鋏の音がした。彼はその摘んだ一輪を何度も繰り返したようにこちらに渡さず、満足そうに香りをかいで、やっとさっきまでの硬い表情では無く、昔見たような表情で微笑んだ。温かな、安堵した表情。それを見て、彼は薔薇の香りがかぎたかったのだと理解した。息が詰まる。置き去りにされたような気持ちになった。

もしここで、この薔薇を崩して、壊してしまったら、その表情はどうなるのだろうか。悲しむの。怒るの。それとも驚いて、それから何も思わなかったような顔をするの。泣いてくれればいいのに、と俺は思って、その顔を凝視する。

イギリスは、ほう、とうっとりと薔薇の香りの吐息を吐いて、ゆっくりとこちらを向いた。俺の視線に気づいて、何を見てるんだ、と問われる。

「別に、やっぱり君なんて好きじゃないな、て思っただけさ」

腕に抱いた薔薇の花束を意識すると、腕が震えた。さぁ、俺はどうしようか。さぁ、君はどうするのか。

一粒、天から雫が降ってきた。





そう、それは単純なことだった。

大人になった子どもはまだ完全なの大人でなく、だからこそ子どもの部分を否定する。どこにでもある成長悩んでいく生き物の物語だ。何も複雑で、特別なんてことは無い。愛は欲求。懊悩は欲求に随伴する。激しく傷つけるような愛に随伴する。

だから、そう。単純な話。大人になりかけの子どもだといこと。まだ完璧な大人では無いということ。

またそう呼ばれる。俺は君のものなんかじゃない。そんな風に呼ばないでくれ。そんな声で呼ばないでくれ。俺は、恐くて、悲しくて、聞いていられなくて、花束をその場に捨てて、走り去った。

いかないで。
最後に聞こえた言葉はそんな風に聞こえた。

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