「……そんで、渡さんかったん?」 「しかたねぇだろ! ……どうやって声かけりゃいいんだよ、あの状況で!」 「普通に声かけたええやん? 忘れてたでぇ、て」 こてん、とスペインは首をかしげて、わからんわぁ、と言った。プロイセンは下唇を噛んで真っ赤になっている。 「……俺は!」 「あーと、お前ら、もうちょい声落とせな。迷惑迷惑」 ぽんぽん、とフランスがプロイセンの頭を落ち着かせるように叩きながら、しー、ともう一方の手の人差し指を立てる。学校から近いファーストフード店。席はわりと開いているが、他の客がいない訳では無い。 「それに、プロイセンとスペインは違うんだから。……スペインだって、早々簡単にこいつがハンガリーちゃんに渡せるとは思って無いだろう?」 「そりゃ、思ってへんけどなぁ」 「だろ?」 二人は、からかうというより慈しむような笑みを浮かべた。プロイセンは何も言わずに二人を睨みつけたが、スペインとフランスにとってそんなものは何の威嚇にもならない。 「まぁ、とりあえず、今夜女子寮行くか!」 「え、今夜かよ!」 「当たり前でしょうに。朝までに行かないと意味無いだろ?」 「もうだいぶ暗うなってしもたしなぁ。うん。頑張りや」 時刻は夜九時前。門限ギリギリだが、そこはこの三人。慣れている。プロイセンとスペインは無事に部屋までたどり着いた後に同室あたりに小言を食らうだろうが、オーストリアもロマーノも毎度のこと上手に寮監をやりすごしてくれているだろう。 「行くならもうちょい遅い方がいいけどな」 「えーそうなん? でも早いうちにいかな、寝てまうんとちゃうん?」 「いや、零時あたりを過ぎた頃が一番楽なんだ」 忍び込むの。 流石フランス、慣れてんなぁ、と言って笑ったのはスペインだ。実際、今夜それをするプロイセンはさっきまで赤かった顔を今は青くさせ、驚いたように目を開いている。 「忍び込むってそんなの、え?」 「何? プロイセン。今さらびびってんの?」 「びびってなんかいねぇよ! いねぇけど……本当にすんのか?」 「せな、渡されへんやん。覚悟決めえや」 女子寮に、忍び込むだなんて。ハンガリーの部屋に、忍び込むだなんて。よくもそんなことを。たかだか傘を渡すだけで。ああ、そうだ。たかだか傘を渡すだけなのに。 「……お前ら本当ありえねぇ」 プロイセンは一言、絞り出すように言った。するしないの以前にできない。できるできないの以前にすべきでない。 「せぇへんの?」 「するだろ?」 日傘は早く渡すべきだ。実際、玄関で渡せなかったのに今渡せなかったのなら何の意味も無いわかってる。 でも、忍びこむのはすべきでない。そんな、まるで恋人のようなこと。 したいかしたくないかと尋ねられれば、したい。だけど、それは、それは恋人であるという前提ありきの話で、今実際したところで、ただ単に心証を落とすだけでは無いのか、とか、向こうにも迷惑がかかるんじゃないのか、とかそうしたことがプロイセンの頭を巡る。 できない。すべきでない。 したい。 「お前ら、こっからついて来んな!」 「えー」 「なんかめっちゃ心配やわー」 「嘘つけ!」 顔に楽しんでます、て書いてるじゃねぇか。 夜十一半時過ぎ。女子寮の各部屋の灯りはポツりポツりと消えていく。まだ週末でも無いから明日に備えているのだろう。 ハンガリーの部屋がどこにあるのかは知っている。今いるところの裏っ側。フランスから教わった手順もちゃんと頭にいれた。まずは部屋の灯りを確認する。起きてるか、起きていないか。 なんとなく、きっと寝ているだろうな、とプロイセンは思った。 「……行ってくる」 「頑張りやー」 「終わったら俺の部屋来て結果聞かせろよ」 全く応援などする気の無さそうなスペインとフランスの声を背に、プロイセンは歩き出した。 ……下から三つ、左から四つめ。そんな風に数え無くても一目でその場所はわかる。灯りは消えていた。もう眠ってしまったのだろうか。 プロイセンは息を吐いた。落胆では無く、安堵して。フランスやスペインあたりには馬鹿にされるかもしれないが、直接会わずとも部屋のドアの前にでも置いてこよう、と思ったのだ。忘れていた旨を紙か何かに書き添えて。 そうしよう、と決めて、もう一度プロイセンは部屋を確認する。三階、角から四つめ。いくら外から眺めたことはあっても、中からは初めてなのだ。隣の隣の部屋は灯りが点いている。廊下の消灯時刻は男子寮と一緒だろうか。そしたら廊下に光が漏れていい目印になるかもしれない。 窓が開いた。間違いなく下から三つ、左から四つめの部屋だ。人影が見えた。 「……ハンガリー?」 名を呟く。小さく。聞こえる筈は無い。のに。 「……あんた、プロイセン?」 気づかれたようだ。けして甘い響きなど無く名を呼ばれる。ハンガリーだった。顔は良く見えない。プロイセンは頷いた。 「何やってんのよ、こんなとこで! こんな時間に!」 「そう叫ぶなよ。寝てるやつに迷惑だろ」 そう言ってから、プロイセンはちゃんとまともな声を出せたことに感動する。今更心臓の音がうるさい。 「……ちょっとそこで待ってなさい」 ふっと部屋の中に影が消える。実は幻覚だった、とかなら笑えるな、とプロイセンは左胸に手を当てて苦笑した。ふう、はあ、と大きく息を吸って、吐く。鼓動が収まる気配など無い。それでも何度か深呼吸を繰り返す。 「うわっ」 いきなり、左から何かが頭に直撃した。ぐらっと身体が傾くのを右足で踏みとどまる。ぼて、と落ちた物をみるとぬいぐるみの様だった。左を振り返った瞬間、ハンガリーが笑っていた。スペインたちの笑いにも似てる。 「まぬけづら」 「……うっせ。いきなり物、投げんな」 落ちたぬいぐるみを拾いながら言う。地面についたから汚れしまっただろう、と思って軽くはたいてやると、乱暴にしないで、とひったくられた。 「別に、乱暴になんかしてねえだろ」 「あんたの行動の全部が乱暴なの」 「……ひとに物投げつける女に言われたくねぇ」 「ん? 聞こえなかったんだけど」 続けられた、もう一度言ってくれる、という言葉は、言えるものなら言ってみろ、という風に解釈したから言わなかった。その代わり、はぁ、とわざとらしく溜め息をついて、顔をあげて正面からハンガリーを見た。 薄い生地の、ふわふわとしたワンピースはこう暗いと確かな色はわからないが多分暖色系で、膝の少し上から足が丸出しだ。胸元はそれほど開いてはいないが、外気に肩をさらして、その細い腕にはさっきプロイセンから奪いとったぬいぐるみを抱いている。寝る前だからか、いつもしている髪飾りはつけていなかった。 いつの間にか収まっていた心臓音が、思い出したかのように再発する。 ただ、日傘を渡してやるだけだろ、簡単だし、すぐ終わることじゃないか、とプロイセンは心の中で自分に言った。 「で、何をしにきたの」 「……お前、教室に日傘忘れてただろ」 「何でそれ、知ってるの」 「フランスが、あいつ今日日直で、鍵閉めんとき気づいて、手伝ってた俺に届けてやれ、て言うから」 「……それだけ?」 「それだけ、て」 「それだけのために、こんな時間に、こんなとこまで来たって言うの?」 「ああ、うん。そうだけど」 それだけなのか、とプロイセンは内心首を傾げる。だって日焼けなんてしたら困るだろうに。 「ばっかじゃないの、あんた」 ぼふ、とぬいぐるみを投げつけられる。今度は受け止めることができた。 「だったらもっと早く来ればいいじゃない。気づいたのか鍵閉める前なんでしょ? 私教室まで見に行ったの。それで無いからどっかで無くしちゃったのか、て思って。すっごく気にいってたのに、て。ずっと夕方から落ち込んでたのに。……届けにくるならもっと早く来なさいよ、ばか」 「……悪い」 玄関で渡しときゃよかったな、とは心の中だけで続けた。でも楽しそうだったじゃねえか、なんてのはただの言い訳に過ぎないのだろう。 ならばさっさと渡して、安心させてやろうと、肩からかけていたぺらぺらの鞄の中を探る。中身がそう入っていないのですぐに見つかった。 「ほら」 「……うん」 差し出した傘をハンガリーは、乱暴に取ったりせずに優しく、愛しげとでも言うように受け取った。 「ところで、何であんたまだ着替えて無いの」 「ああ、だってまだ自分の部屋帰ってねえし」 「……呆れた。ならさっさと帰りなさいよ」 「お前、それわざわざ渡しに来てやった奴に言う科白かよ」 「別に、頼んでないもの」 「かわいくねえ」 「うるさい」 ハンガリーは言って、ぷい、と怒ったように身体を反転させて、寮の方へと歩き出した。 「お前、これ忘れてる」 振り返ったハンガリーに今日何度も乱暴な扱いを受けたかわいそうなぬいぐるみを軽く投げてやると、投げないでよばか、と言われてしまった。 「……今日はありがと。おやすみ」 「あ、うん。おやすみ」 心なしか嬉しそうな、ふわふわとした髪が揺れるその背が見えなくなるまで見送って、プロイセンは自分の寮に向かって歩き出した。フランスの部屋に行く気にはなれなかった。 女子寮に入ろうとした時と違って、慣れた風に寮内へ入る。廊下には自分の部屋の灯りが漏れていた。 「また随分遅かったですね」 「……起きてたのかよ」 鞄を床に置くと、重量の無い音がした。 もう寝るところでしたよ、日付も変わってしまいましたしね、とオーストリアは言って、あくびをした。 「今日は何してたんです。さっきスペインは見ましたけど」 「別に……関係無えだろ」 「ありませんけどね。くれぐれも無茶だけはしないように。無茶するようならもう一切協力なんかしませんよ」 いつも寮監をごまかしてやってる、ということを言われ、プロイセンは、ああ、と頷いた。オーストリアは満足そうに笑んで、眼鏡を外す。 「寝んのか」 「寝ますよ。あなたもさっさと寝支度をして、早く電気を消してくださいよ」 「ん」 プロイセンは脱いだ制服を適当に椅子へかけながら返事をする。 ベッドに横たわったオーストリアは、まぁ、良いことがあったようですけどね、と小さな声で言った。 |
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