既に灯りを消された屋内は、夏場の夕刻と言えどもまだ明るい窓の外によって照らされている。プロイセンは、今日も一日終わった、とさして重くは無い鞄を肩にかけた。使わない教科書は学校に持ってくる意味も、寮の自室に持って帰る意味も無いのだ。別段おかしなことでは無い。きっと毎日ある教科の分だけ教科書も持ってきて、同じ内容を持って帰る弟が変わり者なのだろう、と思って、まぁ本人が好きでしてるならいいか、と一人で結論付ける。それに不思議なことに教科書を寮で使うことがあると言う。 「なぁ、帰りにどっか食いにいけへん?」 「いいけど、お前金持ってんのかよ」 同じくぺったんこな鞄のスペインが教室の入り口で振り返って言ったのに、また同様なフランスが返す。ちなみに全寮制のこの学校、寮は学校と同じ敷地内にあって、飲食店は全く帰り道では無いのだが、そんなことは気にしてはならない。たとえ朝五分で登校できても、下校に一時間かかることは少なく無いのだ。 「今日何で俺がこんな時間まで学校残らなあかんかったと思うん? なあ?」 寮での教科書の用途についてぼんやりと考えてて、二人の話を良く聞いて無かったプロイセンはあまり意味がわからずとりあえず頷いた。それを見てフランスが大きなため息を吐いて、持っている黒い板のような物で自らの肩を叩いた。おっさんくせえ仕草だな、と思ったが口には出さずにおく。 「えー何? お前らお兄さんに奢れっての?」 「丸一日寝とって、日誌書いて無かったん誰やねん。黒板代わりに消したったんやから奢るくらいしいや」 ちなみにゴミ出しをしたのはプロイセンだ。そして、日誌書きも黒板消しもゴミ出しも全て日直の仕事で、今日の日直はその黒い板のような日直日誌を持っているフランスだったのだ。 この辺りでやっとプロイセンは、ああ、と話の内容を掴めた。 「そうだ。奢れ」 「んー。ま、いいんだけどね」 「え、ほんま? ほんまに奢ってくれるん? うわー何か悪いなぁ」 散々自分でそう仕向けた癖にスペインはそう言った。顔は全然悪そうに思っていない。 「で、どこに行くんだ?」 プロイセンは一切悪びれた調子無く問う。 「……スペインは何が食いたいの」 「あー何でもええで。プロイセンは?」 「俺は別にどこでもいい」 「ふうん。ま、駅前で空いてるとこ適当に入りましょうかね」 フランスは最後の方は二人に確認する、というより独り言のように呟いた。 「じゃ、帰りちょい遅くなるってロマーノに言うとくな」 先行って待っといてぇ、とスペインはパタパタと踵をつぶした上靴で走って行った。スペインとロマーノは寮の同室なのである。ちなみにフランスは生徒会副会長なんて面倒な役を引き受けた代わりに一人部屋を貰い、去年フランスと同室だったプロイセンは、どういうことか、オーストリアと同じ部屋になってしまった。ちなみにオーストリアの鞄は重たげな部類である。ヴェストみたいに用途はわからないが寮で使うならまだしも、使わないものを持ってきたり持って帰ったりするなんてただエネルギー効率だけが悪いことをするなんて馬鹿だ、という理由でたった今プロイセンはオーストリアを見下した。そして、鞄の重さと教科書と寮の同室というものが重なりあってできたその新しい発想はプロイセンを満足させ、満足したからプロイセンはどうでもよくなって思考を捨てた。フランスの方に顔を向けて、早く行こうぜ、と促す。 「そこの窓、閉まってるか見て」 「おう」 戸締りも日直の仕事だ。プロイセンは言われた通り窓が閉まってるのを確認して、閉まってんぞ、とフランスに向かって言った。 「よし、行くか。……あ」 「あ?」 どうした? まだ日直の仕事ってあったか? プロイセンはフランスの顔を見て、それからその視線を辿る。行き着いたのはプロイセンも見慣れた席だった。 「ハンガリーちゃん、日傘忘れてら」 「ほんとだ。でもこっから寮まで五分だろ? 日傘なんて特にいらねぇだろ」 薄い桃色をしたその折り畳み傘は、机の側面にあるフックにかかっている。 「五分って、それ、遅刻しそうな朝走ったらの話だろ。女の子の足じゃまた話が違うんだよ。それにどんな少しでも紫外線は紫外線なんですよ」 「……そうなのか?」 「そうなんだ。せっかくハンガリーちゃん綺麗な肌してんだから。今日はもうそのまま帰ってしまったのかもしれないけど、明日の朝も、となったらかわいそうだな」 ふうん、かわいそうなのか、とプロイセンは思った。屋外を見やるとまだ大分明るい。ということは日が照ってるということで、やっぱりそれは肌が焼けてしまうということなのだろう。 「プロイセン、届けてやれよ」 「は? な、何で俺が……」 「え、だって、お前、好きなんだろ?」 「ち、ちげぇよ! 誰が……あんな女」 「そういう割りに顔赤くなってんじゃん。隠せてねぇぜ」 フランスはニヨニヨと笑って、続けた。 「ほら、これを口実に女子寮にも行けるぞ? どうする?」 「……届ける」 「うん。プロイセンも、男の子だねえ」 「べ、別にハンガリーだからでも、女子寮行きてえからでも無くて、ただ困んなら助けてやろうとかそういうのだからな! お前と一緒にすんなよ!」 「えー前更衣室覗いてたの誰だっけ?」 「うっせえ! ああ、もう……行くぞ!」 さっと指にかけた折り畳み傘は軽くて、それでもどこか重たかった。光の衰えぬ窓の外が酷く眩しいとプロイセンは思った。 「フランスらおった! やーごめんなぁ。ロマーノと話こんでもうてん」 階段からスペインは駆け下りてくる。 「や、丁度いいよ。鍵も返し終えたとこだし。あ、途中女子寮寄っていいか?」 「ええよ。どしたん?」 「プーが用事あるんだよ。な?」 「……用事ってほどでもねえよ」 「何なん。何やえらいおもろそうやん」 どうしたん、とスペインはプロイセンに巻きついた。ペタリペタリと3人分の緩い足音が廊下に響く。 「……ちょっと、ハンガリーが忘れ物してたから」 「ん? ハンガリーちゃん? あーさっき会うたで。まだ校内に居るかもしれん」 「え、マジかよ」 「そんな残念そうな声出すな、て」 「出してねえよ! ……で、どこにいる?」 「もう帰るとか言うとったから、もう玄関あたりなんとちゃう?」 追いかけたら絶対間に合うで、とスペインは絡み付いていた腕は解く。 「走れ!」 誰が言ったのかわからないけど、その瞬間、プロイセンは走っていた。 広い校舎、とりあえず玄関の方まで走る。息はだいぶ上がっていた。重さの無い鞄が跳ねる。 まだ学校にいるのだろうか。いた方がいい? いない方がいい? そんなことはわからないけど、ハンガリーにとてはいた方がいいのだろう。忘れ物は早く手元に戻ってくるに越したことは無い。プロイセンは、ハンガリーにとっていい方なら、そっちでいい、と思った。立ち並ぶ靴箱の端が見えた。さぁ、いるだろうか。靴箱の中を見ればわかるはず。 「あれ、ハンガリーさん、日傘どうしたんですか?」 聞こえた名前に、身体が緊張する。立ち止まってしまった。 「あぁ、失くしちゃったみたいで」 教室にあるかと思ってみてきたんだけど、無かったの。 ああ、まだいた。よかった。でもこんな不安げな声はあまり聞いたことが無い。誰と話しているのだろうか。 とにかく俺は早く足を踏み出して、声をかけたらいいんだ、とプロイセンは心の中で自分に言い聞かす。 「あらら……あ、私の使いますか? 使ってください!」 「え、ダメダメ、そんなの。セーシェルちゃんが使わないと。別に寮までくらい、たいしたことじゃ無いんだから」 おそるおそる音を立てぬように足を進めて、靴箱の陰からプロイセンはそっと見た。話している相手は黒い髪の女子で、イギリスがこき使ってるのを見たことがある。 「いいんですよ! 島じゃ日差しなんて気にしても無かったし。この日傘だって、あの眉毛にすこしは淑女らしくしろ、とか何だので無理やり持たされた物ですから」 「じゃあなおさら、セーシェルちゃんが使わないと」 「そんな! ……なら、ご一緒はどうですか?」 「え、……いいの?」 「いいですよ! 相合傘ですね!」 くすくす、という楽しそうな笑い声と、いつの間にか落ち込んだ顔から優しげに笑んだ顔に変わっているハンガリーにプロイセンは今更声をかけることができなかった。 かわりに一つだけ大きく、溜息を吐いた。 |
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