「Sleep in Rose」の香月来夢様に捧げます。 あいつがいつだったか置いてったボトルを独りで開けて、二つで一対のワイングラスの一つだけを手に取り、注いで、呷って、また注ぐ。それを繰り返すたび、赤い液体は薄い硝子を何度と満たしたが、俺自身は全く満たされなかった。この感情を、さびしい、と言うのだと俺に教えた人物は今この場にいない。 すぐに口をつけず、右手に持ったグラスの中身を眺める。 きっと俺の思いはもっと血の凝結したような重たげな赤黒い色をしていて、もっと触れられるだけで簡単に割れてしまうくらい脆い。 俺はその、重たくて脆い思いを胸中に大事に抱え込んで、誰にも知られてはいけない秘密にしたのは、遠い遠い昔の話。割れてしまった薄い硝子は、きっと互いを傷つけてしまうから。だからこそ、長い長い時をかけてより重たくそして脆さを増した、はじめっから割れてしまうこと確定のその思いを、今でも大事に、大事に抱え込んでいる。 グラスの足を持っていた指先から力が抜けた。抜いた、のかもしれない。グラスは音を立てて割れて破片は床に散らばり、零れたワインはその破片を濡らす。ワインの飛沫はソファーやズボンにも散っている。 「……会いにきて」 俺がそう願う権利も、あいつがそうする義務も無いことは、一番俺がよく知っていた。 「うっわ、すっげぇ混んでるな。やっぱりタクシーの方が良かったんじゃねぇの?」 「今の時間帯、タクシーなんか使ったら、渋滞でじりとも進まねぇ、ての」 ホームに入ってきた電車を見て言ったあいつの言葉に、俺はそう返した。でもこの駅で大分降りる筈だから乗れはするんじゃないか、と付け加えると、あいつは、次のにしないか、と情け無いことを言う。 「次のつったって、いつ来るかわかんねぇじゃねぇか。ごちゃごちゃ言ってないで乗るぞ」 「はいはい。お坊ちゃんの仰せのままに」 電車はガタリと一度揺れて停車し、ドアが開かれるとぞろぞろとスーツに身を包んだ会社員が溢れ出してくる。降りた人々はほっとした様な顔をして、家族が待つ自宅へと重たい足を進めていった。隣であいつが、やっぱお前んとこ仕事中毒なんじゃねぇの、だなんて言ったが、無視をして電車の中へ乗り込む。あいつも遅れて乗ってきた。 人がかなり降りたといっても、まだ電車は混んでいて、ドア付近でじっとしておくのがやっとだ。平日の夜、帰宅ラッシュ。アナウンスと共にドアが閉まり、電車は再び動き出した。ガタンゴトンと規則正しい音が妙に優しく感じられた。窓ガラスは車内を鏡のように映していて、それにあいつの横顔が映っている。 一昨日、明後日お前も休みだったけ、といきなり電話をかけてきたのはあいつだった。 それに、休みだけど買いに行きたいものがある、と答えたのは俺だった。 何、着いていってやるよ。 ……でもお前次の日仕事じゃねぇの。 ん、俺三連休取ってあるから大丈夫。 そんなんだから後々仕事が溜まって大変なことになるんだろ。働けよ。 だったらお前はもう少し休めよ。体壊すぞ、仕事中毒。 「……てめぇが働いてないだけだろ」 窓に映る横顔を見ながらほとんど唇の動きだけで呟くと、あいつは聞こえていたらしく、いやお前は働きすぎ、と返してきた。 「それにしても、新しいワイングラスが欲しいだなんて、お前どうしたの」 てっきり、ティーセットとかそんなのだと思ってた。 あいつは俺の右手に下げられた紙袋を見て言う。 「……家にあった一対のうち一本、割っちまったんだよ」 「でも別に、他にも無いこと無かったんだろ。だいたいお前友達いねえんだから一本で十分じゃねぇか」 今日も一対買ったよな、お前。 紙袋の中には、揃いの、繊細な意匠のワイングラスが二本入っている。 食器棚には、相方を失くしたグラスが何本か使われることなく眠っている。 「にほ……菊とか、アルとかと飲む時、やっぱり同じのの方がいいだろ」 「……まぁ、そうだろうな」 あいつは答えに納得したのか、もう興味を無くしたような声で言って窓の外に目を向けた。俺は慌ててその窓に映った横顔から目を逸らした。混んだ車内で、ガタンゴトンと、電車が進む音だけが静寂を埋める。 もう一度意を決して窓ガラスを見ると、俺の方を決して見ないその青い目が映っていて、見なければよかった、と思った。けれどももう一度目を逸らすことができず、手に持った紙袋の取ってをぎゅっと握り締めて、口にすることなく、気づけ、と叫ぶ。俺はお前のことを見ているんだ。でも同時に、気づかないでくれ、とも思っている。お前がどういう反応をするのかなんて、恐くて決して知りたくないんだ。 車内アナウンスが、俺たちが降りる駅を告げる。電車が大きくガタリと揺れた。俺の体も同じく揺れる。ふらり、俺の体は傾いて、あいつが少しだけ焦った声を出した。俺は体を立て直して、やっと直接あいつを見た。あいつもこっちを見ていて、視線が絡む。はぁ、とあいつによって溜息が吐き出された。 「お前、割れ物持ってるんだからしっかりしろよ。それ割ったらまた買いに行かなきゃならなくなるんでしょ」 「……別に倒れたりしてねぇだろ。ちゃんと持ってるし」 「……さっきから思ってたんだけど、なんか本当お前に割れ物持たせるの不安だわ」 「どういう意味だ。少なくともてめぇよりかは俺は注意深いはずだ」 言いながら顔をドアの方に向ける。窓ガラスには電車内は映らず、その向こうの蛍光灯が灯る薄暗いホールが見えていた。ゆっくりと電車は停まる。ガタン、ともう一度揺れて、ドアが開いた。乗車した順とは逆に、あいつが先に下りて、この駅での乗車客が並んで無いからか、降りてすぐ、中途半端なところで立ち止まった。俺が降りると、振り返って、じっと、こちらを見てくる。何だ、と問うと、あいつは首をかしげた。 「何か、今日お前、いつにもまして危なっかしい」 何、調子悪いの? そう言いながら、あろうことかあいつは、俺の頬に手の甲で触れてくる。叩くでなく、殴るでなく、撫でるような。 「別に、普通だろ」 「そうか? いつもだったらもう既に、手足の一つや二つは出てるはずなんだけど?」 「てめぇが割れ物持ってんなら注意しろ、て言ったんだろ。……触んな」 ぱしり、と紙袋を持ってない方の手で妙に優しく触れるその手を払うと、簡単にその手は離された。自分で払ったくせに、心臓の方がすう、と冷える。こんな時だけ、あっさりと引きやがって。 いつの間にか電車はドアを閉めていたらしく、ガタンゴトン、と音を立てて、次の駅へと動き出した。 あいつの唇が、何かを言うように動いていた気がしたが、おそらく気のせいだ。 割れてしまえ、と呟いた言葉は、あいつには聞こえなかったようで安心した。そもそも俺だって、本気で言ったわけではなくて、ただ、こうしてあいつは買った揃いのグラスで誰かと飲むのか、を思うと、割れてほしいと思ってしまったんだ。しかし逆を言えば、そのグラスは俺と選んだ物であって。そうなれば、割れるな、とも思った。 あいつが選びそうででもけして選ばない、俺好みのその意匠。 他の誰かはこれに気づくだろうか。あいつは知って、俺の薦めに従ったのだろうか。 件のあいつはどうしてか俺の数歩後ろをゆっくりと歩いている。俺が振り返ると、目があって、眉は嫌そうにしかめられた。 「前を向いて歩けよ。やっぱりお前のが不注意じゃねぇか」 「や、そうだけど……どうして、隣を歩かねぇの」 俺は立ち止まって、あいつが追いつくのを待った。が、あいつもその場で立ち止まってしまったから、しょうがなく引き返してあいつの隣に立つ。そこから一歩歩き出すと、つられたようにあいつも歩き出して満足した。 たしかあいつの家にも一本置いてあったし、今日も何本か持ってきたから、今日飲む分はこと足りるだろう。 あいつの方をちらりと見ると、あいつは少しうつむき加減になっていて、表情を伺うことができない。少し丸くなった背はいつもより、頼りなく思われる。何を見ているの。視線を辿っていっても、あるのは暗い地面だけだ。ああ、割れ物を持っているから、足元に注意しているのだろう。 「それ、持とうか?」 「いや、いい。お前なんかにまかせられるか」 声はしっかりとしている。 「えっと。じゃ、一緒に持つ?」 「……はぁ? 何でお前と一緒に持たなきゃなんねぇんだよ。前向け」 言われた通り前を向くと、手の甲が触れあった。すぐさま、歩道が狭くなったんだからしかたが無いだろ、という言葉があいつによって小さく零された。 「あれ、お兄さん、こないだワイン置いて帰らなかったっけ?」 あいつは、キッチンの方から顔を覗かせた。俺の家。ソファに俺は仰向けに寝転んで、目を閉じている。眠ってしまおうか、と考えた。何だか妙に疲れている。 「ああ、飲んだ」 「ふうん。……誰と?」 「……誰だっていいだろ」 ま、いいけどね、というそっけない声は存外近くで聞こえて、目を開くとすぐそこにあいつが居た。俺が寝転んでるソファーのすぐ下の床に座り込む。ちょうどグラスを落としたすぐそこで少しだけ緊張した。大丈夫、ちゃんとワインの飛沫もグラスの破片も掃除してあったはずだ。全て。どうしようも無くなった思いも含めて。 「もう眠いの? お前本当に体調悪いんじゃねぇ?」 「……お前が近くにいる所為で気分が悪くなっただけだ」 「なにそれ、ひどーい」 あいつは、今日買ってきたばかりのグラスに、どこから出してきたのかワインを注いだ。あいつはそれを一口だけ含んで、嚥下する。その喉が上下するのにどうしてか目を奪われた。その赤はすんなりとあいつに飲み込まれていく。もしそれがもっと赤黒くて重たい、俺の抱える思いであったのなら。脆い硝子が耐えられる量ぎりぎりのこの思いであったのなら。 「……おい、俺にも寄越せ」 「はいはい坊ちゃん。起き上がったらな」 「だるい」 「じゃぁ、知りません」 なんて、ありえない話。きっと脆い硝子は割れるでなく、割られてしまって、俺にもあいつにも大きな傷を残すに違いない。 泣きたい。寂しい。泣けやしない。だって、泣き顔なんか見られるわけにはいかない。 傷が残ってもいい。この関係を壊してはいけない。一か八かの賭けだ。いや、最初からどうなるかなんてわかってる。 俺は体をあいつの方へ向けるよう寝返りを打って、その顔をじっと見た。 何が楽しいのか、くすくす、とあいつは笑った。 「なぁ、寄越せよ」 「何、そんなに欲しいの」 あいつの問いに俺は頷いた。へぇ、とあいつは興味の無さそうな声をだしてもう一度ワインを口に含む。 いっそのこと、このまま口付けてしまおうか、とろくでもないことを考えながら初めて使うグラスを傾ける。ソファに寝転んでいるあいつの無防備なこと。その物欲しげな視線の先にあるものは俺じゃないことはよくわかってるから、俺はあいつに視線を向けず、瞼を下ろす。 「お前、ばっかりずりぃ」 「……だったら起き上がればいいだろ」 優しくて忍耐力のある俺は、そんなあいつの無意識に乗っかったりはしない。こんなくだらないことで、長い長い間、保持してきたこの関係をふいにしたりはしない。 きっとあいつはこんな関係、偶然に続いただけ、と考えて、俺の苦労なんかわかっちゃいないだろうけど。 保っているこの温かいというには少し冷たい温度は、あいつの隣に立つにはまずまずの温度だけど、ときどきすごく苦しい。それでも、隣に立っているために、この温度を保っている。本気だからこそ、勝算が無い勝負に早々に賭けてしまわず、途方にくれるほど長い間、俺はあいつの隣でずっと可能性が出てくるのを待っているんだ。 地下の誰も入れないようなセラーに、厚い硝子に詰めた思いを寝かせて、並べて。もう、どのくらいの量になったかなんて知ろうとも思わない。でもその全てが燃えるような熱を孕んでいて、今にもこの厚い硝子瓶を溶かし、外に溢れ出ようとしている。 苦しいはずだ。だって、冷たいわけが無いのだ。外側にこの熱を出さぬように留めている硝子はいつまで耐えれるのだろうか。内側を冷ますように持っていたグラスの中身を勢いよく流し込んだ。グラスから口を離すと同時に、堪えきれなくなったのか、あいつが服をくい、と引いてきた。引かれるまま振り向くと、あいつは俺をじっとその目で見ていて、俺も見返す。 「起きたら、て言ってるだろ」 「……なら、起こせよ」 言って、あいつは手をこちらに出した。俺は反射でその手を取ってしまった。瞬間、あいつの手は俺の手の中で大きく跳ねてから、それでも振り払われることなく収まった。感じたあいつの体温は、指先の末端まで温かいというより、熱い。 「あれ、坊ちゃん、熱あるんじゃないの」 そういえば、心なしかその顔は赤い気がして、あいつの手を取ったまま頬を触れようと手を伸ばすと、また大きくあいつの体は跳ねた。ああ、俺の手が冷たいみたいだ。触れてみると、思ったとおりその顔は熱くて、思った以上に赤い。 「……ねぇよ」 「えー、でもかなり熱いけど。もう、お前今日さっさとベッド入って寝ろよ」 「……俺は、起こせ、て言った」 「俺は、寝ろ、て言ってんの。自分で起き上がれないくらい、ダルいんだろ」 そんなんじゃねぇし、と子供の駄々を拗ねたような声で言いながら、あいつはぎゅっと俺の手を握ってきた。熱でも無かったらこんな行動してこないくせに、と笑うと、熱でだろうか、少し潤んだ目であいつは睨めつけてくる。そんな顔をしてると、誤解されるぞ、と心の中で忠告した。 「なに、そんなにワインが飲みたいわけ?」 「……だって、せっかくグラス買ってきたのに」 「また今度使えばいい話だろ。ワインも何本か置いていくから、ね?」 「……え」 あいつは、睨んできていた目元を少し緩めて驚いたような顔をして、小さく零れるような声を出した。 「ワイン、何本か置いていくから、好きなときに飲んだらいいじゃない」 その時は俺を呼んで、と声に出さず付け加えた。他の人でなく。 「ね、だからさ」 なるべく優しい声を出して、俺はお前のこと心配してんの、と全てで表現して。 それなのに、いきなり、あいつは握っていた俺の手を乱暴にふり払った。 「もういい」 腹立たしげな声。拒絶。その勢いをもってあいつは手をソファの背もたれにぼす、と音を立ててぶつけたが、それもあいつの不機嫌さを伝えてくるだけ。俺はただ焦って、でも長年の癖でどうにか表には出すことはなくて、自分のそんなところに頭の隅で感心する。厚い硝子の瓶のよう。あいつはその中に入っているものをわかってない。 そして、俺にもどうしてあいつが今、怒っているのかわからなかった。 あいつの考えていることがわからないなんて、そんな。ずっとずっと昔から、それだけはわかっていたはずなのに。 俺は呆然と、でもそれを顔には表さずにあいつのことを見るしかできない。数秒置いた後、あいつは俺から顔をそむけて、寝る、と棘があると同時にどこか寂しそうな、傷ついたような声で言ってから、ソファからのっそりと身を起こして、立ち上がった。ドアに向かって一直線に歩きだす。 「あ、うん。おやすみ」 とりあえず、そう言うと、その背は固まるように歩くのをとめたが、次の瞬間には何も無かったように俺から遠ざかっていった。 残された俺は、あいつ、そんなに眠たかったのか、と一番簡単な理由を捻りだして、自分に納得させるようにグラスにワインを注いで、喉に流し込んだ。熱いものを冷ますため。しかし冷やすでなくワインは体内で燃えて、より熱を高める。はぁ、と大げさに息を吐いて、あいつの体温が残るソファに上半身をうつ伏せるようにして預けた。目を閉じると、さっきのあいつの潤んだ目とか、染まった頬だとかを思い出した。体調が悪いためだとわかってはいるけど。 それが、もし、この赤く燃えている俺の思いのためであったなら。厚い硝子さえも溶かしてしまいそうになるほど熱いこの思いであったなら。 「……何だよ、それ」 必死になって隠してる、ていうのに。だってまだ時期では無いから。当たってみて砕けてそれでおしまい、というにはもうこの思いは大きく、熱いものになっている。捨ててしまうにもどこへ持っていけばいいというの。 「揮発するほど、可愛げのある思いじゃねぇんだよ」 呟いた言葉は、温かなソファに吸い込まれていった。 |
硝子は思いで満たされた もう溢れてしまうのは時間の問題。 |