気持ちとしてはスキップして、でも性にも無くドキドキして、あいつの家の玄関まで続く庭を悪いている。俺の誕生日から三日経っていた。 ポケットには、ありとあらゆる宝石店に足を運んでやっとのことで選んだ、あいつが好みそうなシンプルな指輪が入っている。自分の左手薬指にはめているのと揃いで買ったものだ。 受けとってくれるのかなぁ、受けとってくれないのかなぁ、と悩むのはそれだけで、珍しく晴れたこちらの空がいつ曇り空に変わって涙を落とすかなんて俺は気にもしていない。受けとってくれるかなぁ。 コンコンとドアノッカーを三度叩いてみたけれど、しっかりしてるようでどっか抜けてる家主は鍵をかけるのを忘れていたようで、お兄さんが来ましたよー、と歌うように告げてから勝手に中に入った。ガチャリと鍵を閉めるのを忘れずに。 リビングから顔を出したあいつは、俺を確認した途端、むっと心底嫌そうな顔をしたけどそれは気にしない。いつも通り。だったらいつも通り、俺からのプレゼントも受け取って頂戴。 勝手にあがりこんできたあいつは、どうしてか上機嫌で、それでまたどこか落ち着かない。何の用だ、と訪ねても、んーちょっとな、と曖昧にしか応えなかった。 「今日は珍しく晴れてるね」 「あぁ、そうだな」 とりあえず紅茶を淹れながら答える。や、頼まれたからじゃなくて自分も飲もうとしていたから。選んだティーセットは三日前からずっと使ってる、いつの日かあいつから贈られたものだ。覚えているだろうか。 そんなことを思いながらテーブルに着いているあいつを見やると、あいつの青い二つの目もこちらの方を向いていた。にこり、と笑われる。 「な、何だよ」 「いやね、うん。別に何でも無いんだけど」 「ふうん」 テーブルの上にティーポットと、カップを一つ、あいつの方へと置いた。キラリと視界の端で何かが光った。それが何かと理解したのは、自分の方へもう一つカップを置いてからだった。 いかにもあいつらしい、趣味のいい指輪。左手の薬指にはめられている。そんなものを今まで見たことが無かったから、きっと、誕生日に誰かから贈られた物なんだろう。あんまりだ、と思った。何もやれなかった俺に、俺だけでいいと言ったあいつが、他人からのプレゼントを、他人の影を、見せ付けるだなんて。 何のために来たんだ、ともう一度問うた。苛立った声だ、と発してから気づいた。 「何でも無いんだけど、強いて言うならお前に会いに?」 殴ってはいけないだろうか。いや殴っていいだろう。 いつもならそんなことを思う間もなく手が出ているが、今そうで無いのは、あまりのことに呆れて、脱力してしまったからだ。何て酷い冗談。 「……お前、帰れよ」 「え、何で? 来たばっかりじゃない」 「もう会っただろ、帰れ」 「まだカップに手もつけて無いのに?」 「知るかよ。今日はもう……帰ってくれ」 何がいけなかったのだろう。何か悪いことでも言ったのか。思い起こしてみても全く思い当たらない。それとも本当の目的を知られてしまって、行動に起こす前に拒否されているのか。そんな。 気持ちを量ろうと、瞳を覗き込もうとするが、その強い緑の双眸は伏せられてしまっていて、それも叶わない。何にもわからない。 だって紅茶淹れてくれたじゃない。用が特に無くったって、何だかんだでいつも居させてくれるじゃない。それなのに今日はどうして怒っているの。どうして今日に限って。 「どうして?」 「何だっていいだろ。お前の顔を見たく無い」 「俺が何か悪いことした?」 三日前、俺に何もプレゼントできなくて泣いていたのは誰。あれは俺が思っていたのと違う意味だったの。 「……何も、してねぇよ」 そして何で今も、涙を押し殺したような声? 「じゃぁどうしてそんなに怒ってるの? 教えてくれないと、わからないよ」 あいつは目を伏せたまま、首を横に振った。答えては、くれないらしい。 このまま問い詰めれば泣いてしまうのかもしれない。でも、きっと俺が立ち去っても泣いてしまうのだろう。堪えるほどの涙は、そう簡単に乾いてはくれないのだ。 教えてよ、と吐いた。恐る恐るゆっくりと、手を、あいつの頬に伸ばす。どうせなら拭ってやれる距離で泣かれた方がマシだ、と思ったんだ。目じりを親指で軽く撫でてやる。驚いたように向けられたその目はやはり潤んでいて、今にも雫が零れそうだ。 何でそんな優しい顔をするんだ。何で俺なんかに構うんだ。俺のとこより他に、行くところがあるだろうに。だから、離せ、と言おうとした。だけど、声には出せなかった。出るのはただ嗚咽ばかりだ。 「ねぇ、何を怒っているの。何が悲しいの」 怒っているのは、他人の影を纏う嘘つきなお前にだ。 悲しいのは、何にもできない臆病で子どもな自分にだ。 ぼろぼろと目からは涙が落ちる。既にあいつの手は濡れてしまっただろう。 「せっかく、今日はいい物を持って来たのに」 何を言うんだ。そんな物はいらない。もうお前の影なんかはいらない。横に何度も首を振った。 そうだ。この家にあるお前のプレゼント全て処分してしまって、お前という存在を俺の中から消してしまおう。 そう思ってもいっこうに楽にはならない。余計に悲しさばかりが増す。ああ、その目の前にあるカップも、ポットも気に入っていたのに。使うたびに幸せだったのに。思うとすごく悲しくなった。 「そんなこと言わないで、いつも通り受け取ってよ。お願いだから、受け取って」 何でお前がそんな、懇願するような声なんだ。 ここまであいつにプレゼントを拒まれたのは始めてだ。今度こそ受け取って欲しいのに。日を改めた方がいいのだろうか。それにしたって泣いてるあいつをほっとく訳にはいかない。 もういっそ、その左手を奪って、勝手に指へ通してしまおうか。ああ、それはいけない。捨ててしまわれたら立ち直れない。それに、これは受け取って欲しいんだ。どういうことかとわかった上で、受け取って欲しい。 「何が、気にいらなかった?」 自分でも情け無い声だとわかっている。俺が泣きたくなってきた。 それでもあいつはただ首を振るばかりだ。声さえ聞かせてはくれない。 「……俺が、嫌い? いつも言うような意味じゃなくて、本当に、顔さえ見たくないほど、存在さえ認めたくないほど、嫌い?」 お前の周りにある俺の影は、お前にとって不快な物でしか無かった? そうだとしたら、俺はなんて馬鹿なんだろう。あいつの言った言葉を、自分のいいようにだけ考えてしまって。あいつの気持ちさえ知らずに、勝手に指輪なんか作って。 「そしたら、ごめんね。そんなに嫌だったのなら、もう持って来ないから」 手を、その頬から離した。指輪をはめていた方の手だった。 いつも、小さい頃から、この涙を止めるのは自分の役割だと思っていたのだけれど、もしかしたら泣かせてしまう方こそがそうだったのかもしれない。 それでも俺にとって、お前のおめでとうの一言が、一番のプレゼントだったんだよ。 そう言うのさえ憚られて、俺は無言で立ち上がった。 あいつは無言で立ち上がった。見捨てられた、と思った。さっき、俺はあいつを忘れようと思ったのに、なんておかしな話だ。もう、いらない、と思っているのに。いらない、のに。 「行く、な」 行かないで、行かないで、行かないで。お前に見捨てられたら俺は生きていけない。 じっと見てくるその青い瞳が怖かった。蔑まれている気さえした。 いいんだ、どう思われていても。嘘でもいいから、俺の傍に居てくれ。俺のことを思っている振りだけでもして。 「……行かないよ。行かない。どこにも行かない。俺がお前を見捨てる筈が無いだろう」 ああ、また、そんな嘘を吐いて。でも嘘でも安心する自分がいるんだ。その指輪の存在なんて目をつぶればいい話なんだ。 「嫌だ。嫌だ。もう、何もプレゼントしてくれないだなんて。嫌だ。お前の影が無いと呼吸さえできない」 「……本当に? 本当に、受け取ってくれるの」 涙は溢れては滑り落ちていく。俺は必死に頷いた。滲んだ視界の中で、あいつの安心したような顔が一瞬はっきりと見えた。綺麗だった。 「じゃぁ、左手出して」 言われるまま、俺は手のひらを上にしてあいつに差し出した。あいつから貰えるのだったら何だって受け取って、絶対大切にする。ところが、あいつはくるりと俺の手半回転させ、手の甲を上に向けさせる。 「……絶対に、後悔しない?」 そう尋ねてくるから、しない、と短く告げた。涙や、それに伴う鼻水や、しゃくりあげる嗚咽や、息苦しさからくる呼吸音でもう俺は酷いことになっているだろう。 あいつはポケットから何かを出した。涙でよく見えない。 手が震えた。金属の輪はあいつの薬指を選んでゆっくりそれを通っていく。最後まで行き着いたとき、俺はやっと呼吸を止めていたことに気づいた。 思ったとおり、それはあいつの手にすごく良く似合った。 「お前にあげるよ。俺のとお揃い。受け取ってくれるよね」 「……何、で」 俺なんかに、そんな。だって。 言いながらあいつは指輪をした手でごしごしと目を擦りだす。ああ、そんなに擦っちゃダメなのに。 「この指輪は、どんな時でも消えることが無いお前の影だ」 手を掴んで擦るのを辞めさせると、緑の大きな瞳がこちらを向いた。涙は流れ続けている。 「俺の影?」 「そう。いつでもこれを見て、お前のことを思うよ。だから、お前もこれを見て、俺のことを思って」 「お前のことを?」 「うん」 あいつは一瞬ふにゃりと笑って、それからまた泣き出した。 「そんなの……ずっと前から思ってるのに」 ぎゅっと俺の手を握ってくる左手が愛おしい。 「お前が好きだよ。俺だけのになって」 「……俺も、お前が好きだよ」 今年貰った一番のプレゼントが塗り替えられた。どっちにしろ、お前からのプレゼントだけれども。 俺は、お前へのプレゼントがはまっているその左手へ、同じものをはめた己の左手を重ねた。 |