あいつに何かをあげたのは、あいつから貰ったのよりも確実に少ない。

鮮やかな紙や上質のリボンで飾り付けてという場合もあるし、己の身につけていた物、使っていた物をなんとなくという場合もある。加えて、料理だとか土産のお菓子だとかまで考えると、きっともう数えきれない。

それに比べて、俺はあいつに何をあげてきたのか、と。

別に物を人にやるのが嫌いな訳では無い。証拠として、大陸の図体ばかり育ちやがったガキには昔から色々とあげてきたと思うし、今も何かとあげている。あいつにも、訪ねてきたタイミングが良かったら、茶葉とかジャムとかを持ってかえらせているから、別に回数自体が少ない、ということも無いのだけど。

――ああ、俺が貰いすぎているのか。

そもそもあいつにあげれる物自体が少ない。使われない、気に入られないのならあげた物がかわいそうだから、あいつが使う様な、気に入るのような物をあげよう、と思ってみても、人よりもセンスがいい、と自称しているだけあって、あいつは確立した自分の趣味嗜好を持っている。何でも、自分の眼鏡に敵うものじゃないと気に食わないのだ。そう、下手な物はあげれない。

そうなるとあたり障りの無い、すぐに無くなっていくもの――たとえば飲み物食い物の類、がいいのだろうが、茶葉なんかならともかく、料理やワインは俺が貰うものであって、あげるものではない。
花の類だって、男から男へあげる物じゃないだろうし。

考えれば考えるほど八方塞がり。あいつはいつも何を考えて俺に物をくれるのか。

時間が無い。あと四日後は、あいつの誕生日だ。

別にアメリカみたいにプレゼントが楽しみで楽しみでしかたが無い、という訳じゃないから、別に無理して何かを考える必要は無いのだろう。事実、あいつの家に行く途中で適当にワインを買って、どうせ足りなくなるだろうから買ってきた、なんて言い訳をつけながら渡したことだってある。
それでもあいつは本心はどうだか知らないが、助かる、と言って受け取ったのだ。

別に今年もそんな風でいいか、ともう疲れた頭は考えはじめている。


しかし、気づいてしまった。

クローゼット、食器棚、ペンケース、その他いろんなところにあいつからの物が、少しじゃなく、たくさんある事態。

そのほとんどがもう何年も、何十年も、いやそれ以上俺と時間をすごした物や、これから先、また長い間俺と時間をすごす様になる物たち。俺自身が選ぶものとは少し違うけども、別に嫌いじゃない、むしろ、好ましくさえある物たち。事実それらは日常の中で使われている。

ならば逆にあいつの日常の中に、俺があげた物があるのか、と思ったのだ。
そして、きっと殆ど無い、という結論に思い当たる。残る物を、あげてきていないのだ。きっと俺があげた物たちは、すぐに消費され、記憶の端にもひっかからず、忘れられてしまっただろう。


そうすると何かを、何年、何十年とあいつの身の回りにあって、使って貰える何かを、あげようと思ったのだ。あげたくなったのだ。ずっとあいつの日常にあって、忘れられない何かを。

あと四日後は、あいつの誕生日だ。