ねぇ、お兄さん。

イギリスは酒場で一人で飲んでいたら、声をかけられた。飲んでいたと言ってもまだ入ってきたばっかりで、それほど酔ってもいない。声の主の方を向くと、フランス人であろう女が、ふわりと笑みを浮かべて、訊いてくる。

「お隣よろしい?」
「どうぞ」

母国語で、ありがとう、と言って女はイギリスの右側に座った。薄暗い店内に、くすんでいない金髪が綺麗だ、と思った。長い睫毛に瞳の色は深い青。唇は熟れたようで、ちらりと目をやると、胸も、かなり、大きい。
今日は運がいいかもしれない。イギリスは、思いながら酒とともに唾を飲み下した。女は、小さくくすりと笑った。
 


酒と楽しい会話によって、夜は簡単に更けていった。イギリスはいつもみたいに泥酔はしていない。
互いに名前や、何の仕事をしているのか、とかは訊かなかった。どうせ今夜だけの付き合い。そんなものは訊いたところで無駄なだけだ。

「あれは何度見ても泣けた」

最近見た映画の話。一人で行って二回。その後フランスに無理やりつれられてもう一回。その時にも泣いてしまってフランスに、お前は本当にしょうがない奴だな、と言われてしまったのを覚えてる。しょうがないってどういう意味だ。

「涙もろいの?」
「いや、そういう訳じゃないけど……どうだろう」

イギリスは完全に否定できずに、いつの間にか氷だけになったウィスキーのグラスを回した。カラン、と澄んだ音がする。涙もろいのか、俺。酒を飲んだらよく泣くってのは知ってるけど。
答えられずにいると、女は優しげに目を細めてワイングラスを傾ける。

「わたしはその映画、知り合いと言ったんだけど。その人があんまりいい話だった、て言うから」

確かに素敵な話だったけど、隣ですっごく泣かれるものだから、わたしは泣けなかったな。その人がわたしの涙まで流してくれた気分になって。
女は言って、ゆるく巻いた髪を耳にかけた。思わず見つめた指先の、爪は短く切り揃えられている。その視線に気づいたのか、女はどうしたの、と尋ねてきた。

「爪は……、伸ばしたり塗ったりしないんだな」
「ああ。外出先でもね、たまに料理するから」

その知り合いがすごく料理オンチでね、作ってあげなきゃいけないの。


ガチャ、と部屋のオートロックがかかるなり女はイギリスの上着をぎゅっと握り、顔を寄せた。イギリスはそれに応えつつ、女の細い腰に腕を回した。だんだんと口付けは深くなっていく。上手いな、と思った。
そういえば最後にキスをしたのはいつだったっけ、とくらくらする頭でイギリスは考えた。ああ、そうだ丁度一週間前。三度目に映画を見に行った帰り。
ふぁっ、と二人して息を吐いて、吸って、また唇を合わせる。
別段、あの男とはそういう仲ではない。いわゆる恋人や、愛し合ったり、優しさを向け合うような仲ではなく、ただどこにも持っていくことのできない熱の捌け口にお互いしているだけだ。だからフランスにとってイギリスは、数ある相手の一人に過ぎないし、イギリスだって特に男と寝るのが趣味では無いのだから、今日みたく名前も知らない女を抱くことも別に珍しいことじゃない。
そこまで考えて、イギリスはやめた。何の必要があって、女の前であの男のことを考えなければならない?
ぐっと、強く女の腰を引くと、楽しげな笑い声が聞こえた。その笑い方がすごくあの男に似ていて、どうしても瞼の奥で像が、重なる。

「……ラン、ス?」

思わず零れたのは、女に聞こえたか、聞こえないかの声。でも女にはちゃんと聞こえたらしく、イギリスが目を開くと、驚いたような顔をしている。最悪だ、俺、とイギリスは心の中で呟いた。どうにも弁解しようがない。
さっきまで上がる一方だった熱も、急速に冷めていく。女が、その唇を動かすのがヤケにゆっくりと見えた。

あ、バレちゃった?

「……え」

女はイギリスの上着から手を離した。つられてイギリスも腰に回した腕を離す。ちゃんと頭は働いてない。

「どうよ? 女になった俺は」
にっこりと笑って、女が言う。相当だろ?

ああ、違う。これはどちらかと言うと、にやにや。上手なキスも、髪を耳にかける仕草も、その瞳の色も、全て。

「……どういう、ことだ?」
「あー、なんかね、朝起きてたら女になってた? 俺自身もわかってないんだけどね」

あの男と同じ物を、目の前の女が持っている。

「ちょっと、イギリスからかってやろうと思って、でもバレちまったら面白くねぇなぁ」

イギリスはどこかに頭を打ち付けて、意識を無くしたい気になった。目を閉じて、開いたら全部夢だったという風にはならないか。実行してみる。目を開いたら目の前には美しい女がいた。

「で、何でわかったの? やっぱり愛?」

夢じゃなかった。やっぱりこの女は長年の腐れ縁のあの男らしい。どういうことだかは知らないが。

「……お前になんかに愛なんて持っちゃいねぇよ」

別にわかった訳ではなく、ただ思わずお前の名を呼んでしまった、とも言えなくて、イギリスは誤魔化した。

「えー、俺はお前のこと愛してるよ?」
「気持ち悪いこと言うな」

誰にもそう言ってんだろ、と心の中で付け加える。どうせ沢山あるその中の一人としか思ってないくせに。俺だけを、じゃないくせに。そんなことを思って、これだと愛されたいと思ってるみたいじゃないか、と自分で気づいて、即行否定する。そんな訳は絶対無い。

「えー、気持ち悪いって何よ」

こんな美女が言ってやってんのに、とフランスは笑った。唇が近づいてくる。少し触れて、すぐに離れた。

「それにしても、お前って普通に女の子ともすんのな」
「はぁ? ……お前もしてんだろ」

自分のこと棚に上げて言うな、とイギリスは言った。

「まー、そうなんだけどね」

言ってフランスは口を閉ざした。しばらく何か考えていた様だが、面倒になったのか、腕をイギリスの首に回して、もう一度キスをした。今度は長く、深く。イギリスは先ほどの様に腰に腕を回すべきか考えて、結局添える程度にした。フランスが唇だけで笑うのがわかる。

「ねぇ、ベッドに行かない?」
「お前、マジで言ってんのか」
「お前こそ、最初はその気だったんだろ?」

唇の端をきゅう、と上げて言うのは、金髪に青い目の美女。胸もでかい。頭がくらくらした。

「でもお前、……お前なんだろ?」
なんかすっげぇ、やる気無くす。だいたい何でそんなに俺に抱かれたいんだよ。
「ん? 何でだろうな。そういう気分になったから?」
「……何だよ、それ」

手ぇつけたんなら最後まで頂けよ、と挑発するようにフランスは言った。

そしてまたキスをした